M・ペルティエ(M. Pelletier)における個人主義と女性参政権の主張  〜第一波フランス・フェミニズムのなかの「過激分子」〜

見崎 恵子

はじめに

 1988年、雑誌『サインズ(Signs)』 において、アメリカ人フェミズム史家であるK.Offenは、フランスのフェミニズムの歴史をふり返り、それが男女の差異を認め、家族や社会との関係における役割にもとづいて女性の地位向上をはかる「関係主義的」 フェミニズムであったとし、アメリカ的な「個人主義的」フェミニズムとは対照的なこの「関係主義的」フェミニズムの「善き伝統」を現代フェミニズムが踏まえる必要があると論じた。  このようにフランス・フェミニズムの歴史をひとくくりに「関係主義」派・「差異派」として位置づけ評価することは、その当否を別にしても、あたかもフェミニズムというものが個人主義的・「平等派」か、それとも関係主義的・「差異派」かのいずれかであったり、両方の要素を兼ね備えたものとしてありえたりするものだと考えることであり、それは結局、戦略と選択の「正しさ」を競うものにすぎなくなる。しかし、守るべきものとされ、あるいは反対に否定すべきものとされる「差異」ないし関係役割自身が、歴史具体的な政治的脈絡のなかで構築される非本質的なものであるという現代フェミニズムの視野に立つなら、フランス・フェミニズムの歴史のなかに正しい「善き伝統」を探るのではなく、例えば第三共和政下で、なにが「平等」を阻む「差異」として呼び出され、それをめぐってフェミニストはなにを論じ、どう闘ったのかを丁寧に検討することこそ重要であろう。
 本稿では、K.Offenが「当時の道徳的規範からはみ出した者、失敗者」であり、フランスでは「決して受け入れられることがなかった」個人主義的フェミニストと評している 第三共和政下のフェミニスト、マドレーヌ・ペルティエ(Madeleine Pelletier)を取り上げる。穏健な「関係主義的」「差異派」フェミニズムが席巻したとされる20世紀初頭のフランスにおいて、ペルティエの個人主義的「平等」論はその対極に位置づいている。ここではとくに女性参政権に関わる主張を中心に、ペルティエの極端ともいえる「平等」主義を考察する。そしてその破壊的批判力を、J.W.スコットの著作『パラドックスしか示せない:フランスのフェミニストと人権』(1996) に拠りながら、その「個人性」の追求ゆえに開かれたペルティエのフェミニズムの地平−−その地平は当時のフランスにおいておぞましくも唾棄すべきものに思われたがゆえに、ペルティエは葬り去られねばならなかった−−に関わらせて検討する。K.Offenが「善き伝統」とする「関係主義的」フェミニズムは、確かにいくつかの個別的政策を引き出し成果をあげたかもしれない。しかし、それはフランス第三共和政の政治的言説を根本から問い直すような、批判・抵抗としてのフェミニズム議論を展開することはなかった。それをなしたのは、「失敗者」であるペルティエのフェミニズムであり、J.W.Scottが20世紀初頭のフランス・フェミニズムの考察の「場」としてペルティエを選んだのもそのためである。
 以下ではまず、日本でまだあまり知られていないペルティエの生涯を概観し、次いでフランスの女性参政権運動のなかでのペルティエの位置やその主張の特徴を明らかにし、最後にペルティエのフェミニズムにおける「参政権」の意味を、その個人主義と関わらせて考察する。

1,マドレーヌ・ペルティエの生涯

 マドレーヌ・ペルティエ(洗礼名アンヌ、1874〜1939年)は、現代フェミニズムが「第一波」と名づける、20世紀初頭の女性の権利運動におけるもっとも戦闘的な活動家の一人である。当時のフェミニストの多くがブルジョワ階級出身であったのにたいして、ペルティエはパリの中央市場近くの労働者街の、青果物を商う貧しい家庭に生まれている(1874年5月18日誕生)。実際、父は辻馬車御者の仕事中に大怪我をして障害者になっており、ペルティエの母の商いでなんとか食いつなぐ状態であった。11人の子を出産しながら、生き延びたのはわずか二人、しかも一人(ペルティエの兄)はペルティエが物心ついた頃には行方不明となっている。ナポレオンのような偉大な将軍になりたいという幼いペルティエに、「女は兵隊にはなれない。何にもなれない。結婚して、料理をつくって、子どもを育てるだけ」と母親は乾いた口調で答える。ペルティエはのちの回想録で「わたしは、少なくとも物事が理解できるようになった歳から、ずっとフェミニストであったと確信をもっていうことができる」と書いている 。
 この不遇な子ども時代の環境から抜け出るべく、ペルティエは独学でバカロレアに挑戦し、1898年にはパリ大学医学部に入学、人類学分野での研究に加えて心理学を学び、フランス初の女性精神医学インターンとなった。インターンになるに当たって「市民的政治的権利を保持していること」という応募条件により女性が排除されていることを告発する記事を、フェミニスト新聞として知られる『ラ・フロンド(La Fronde)』 に載せた(1902年)のが、フェミニストとしてペルティエが公に登場する最初の機会となった。とはいえ、それ以前からフリー・メーソンの会合に出席し、パリ・コミューンの闘士ルイーズ・ミッシェル(Louise Michelle)と出会い、政治活動の必要を感じるようになっている。またこの時期、フェミニストの小さな集まりの一つで男装の女性を知ったペルティエは、自らのフェミニスト思想の表明として、生涯にわたって男装にこだわることになる。さらに人類学・心理学を学ぶなかで、女性の劣等性を証明すると称する科学の「ウソ」(女性は頭蓋骨の小さく、ゆえに劣っているというような)や性格・心理の形成における環境要因の大きさに気づいている。
 ペルティエがフェミニストとして本格的に活動を開始するのは、1906年のことである。パリ市立病院の医師になろうとしたが試験に失敗、一方でPTTの保健医を引き受けつつ、患者の当てもなく小さな医院を開業したときであった。それまでペルティエが何回か集まりに顔を出していたフェミニスト団体「女性の連帯(La Solidarit des femmes)」 のリーダー、カロリーヌ・コーフマン(Caroline Kauffmann)がこの団体の指揮をペルティエに委ねたのである。この時期、イギリス、アメリカの女性参政権運動の刺激を受けながら、フランスでもようやく運動が広がりをもちはじめ、フランスにおける最初の女性参政権運動家として知られるユベルチーヌ・オークレール(Hubertine Auclert)の急進的運動に続いて、穏健なブルジョワ女性団体も参政権を求め始めていた。「連帯」のリーダーとなったペルティエは、すぐさま積極的な活動を開始し、「戦闘的女性参政権運動家(suffragettes)」の一人として頭角を現すようになる。
 ペルティエは、フェミニズム団体の活動を開始した同じ1906年、フランス社会党に加わっている。社会変革のために男性の政治活動に加わることの必要をL.ミッシェルから学んでいたペルティエは、ここでもめざましい活躍ぶりをみせている。1906年11月のリモージュでの党大会に代議員として参加し、女性参政権実現を党の決議とすることに成功し、翌1907年のナンシー大会でも再度決議を得ている。ナンシー大会の数日後には、シュトゥットゥガルトでの第1回社会主義女性インターナショナル会議に、8人のフランス代表の一人として出席した。
 この国際会議は、よく知られるように、一方で女性参政権の獲得を目標に掲げつつ、他方で、社会主義女性とブルジョワ・フェミニズムの連携を禁止する決議を出している。統一後のフランス社会党も、次第にこの反フェミニスト的傾向を強めていく。このような対立は、女性参政権運動を分裂させるものであり、ブルジョワ・フェミニスト団体「女性の連帯」のリーダーでもあるペルティエにとって受け入れがたいものであったにちがいない。しかも、議員となった社会党の男性たちは大会決議を先延ばしにし、女性参政権実現に努力する様子はみえなかった。この参政権問題での社会党への失望は、他方で1913年のクリオ事件 にみられるような労働運動におけるセクシズムへの不満と重なり合って、ペルティエの社会主義運動家への不信を高めるものであった。とはいえ、ペルティエは1920年の党分裂まで社会党を離れることはなく、1910年の下院選挙には社会党公認候補としてパリ8区で、1912年パリ市議会選挙ではパリ7区で立候補している。
 トゥール大会で社会党から分裂して共産党が設立されたとき、ロシア革命に魅せられたペルティエは、共産党へと移った。そしてロシア革命が女性を本当に解放したのか、自らの目で確かめようと、非合法でロシアに旅行したペルティエは、いくつかの点での前進を認めつつ、個人の権利や女性解放の面での問題点を指摘せざるをえなかった 。女性の権利と平等を綱領に掲げたフランス共産党においても、当初の期待は早々とうち砕かれ、ペルティエをはじめ多くのフェミニストが20年代半ばに党を去った。
 第一次大戦を境に、ペルティエはおもてだった政治活動からは身を引くようになっている。大戦直前に「女性の連帯」を事実上解散し、20年代半ばに社会主義運動とも距離を置くようになったペルティエの活動の中心は、平和団体や若干のアナーキストグループでの活動を除けば、いくつかの著述と開業医としての仕事になっている。1920年及び1923年、中絶した女性の訴追を容易にし、中絶を施した者だけでなく避妊・産児制限の宣伝に携わった者をも処罰する法律が議会を通過しており 、ペルティエにたいする警察の監視の目が執拗になってきたことが大きく影響していると考えられる。というのも、戦前から新マルサス主義の運動に加わり、1911年には『中絶の権利(Le Droit l'avortement)』を書いて、女性の自らの身体についての権利を主張していたペルティエは、20年及び23年法以降、とりわけ30年代に入って一段と強化された新マルサス主義への弾圧、中絶の取り締まりのなか、「婦人病」の開業医として堕胎罪の嫌疑をかけられるようになっていたからである。
 1939年4月、ついにペルティエは堕胎罪で逮捕され、禁固は免れたものの精神病院に閉じこめられ、同年12月29日そこで生涯を終えた 。それは第二次世界大戦幕開けの年であった。

2,フランス女性参政権運動における過激派の「失敗」

 イギリス、アメリカの女性参政権運動に比べて立ち後れ、戦闘性に欠けるとされるフランスの参政権運動は、それでも第一次大戦直前に急速な盛り上がりをみせる。そのスタートを切ったのは、先に触れたようにオークレールの活躍であった。『女性市民(La Citoyenne)』紙を創刊し(1881年)、団体「女性の参政権(Le Suffrage des femmes)」を創設して(83年)、派手なデモンストレーション、知事や地方議会への請願文、国会でのロビー活動、納税拒否、女性の立候補運動などを展開したオークレールは、1888年夫とともにアルジェリアに赴いていたが帰国し、1900年に再び組織を立ち上げて、以前にもまして積極的な運動を再開した 。「女性の連帯」のリーダー、K.コーフマンは、このオークレールと共闘し、ナポレオン法典(民法典)百年祭に示威行動をするなど、次第に戦闘的性格を強めていた。コーフマンから「女性の連帯」の指導を任されたペルティエもまた、オークレールの切りひらいた道を進んだ。「女性は投票しなければならない。女性は法に従い税金を払っているのだから」と書いたビラを国会議場の傍聴席からまき、集会を組織し、ロビー活動を行い、1907年には月刊紙『女性参政権運動家(La Suffragiste)』を発行して、世論に訴えようとした 。 
 しかし、フランスの女性参政権運動において世論をひきつけ、より多くの女性たちを運動に呼び込んだのは、ペルティエらの戦闘的活動家ではなく、「フランス女性全国評議会(CNFF)」のような穏健なフェミニスト団体であった。この団体は、1900年パリ万国博にあわせて開催された「女性の地位と権利に関する国際会議」に集った女性団体・慈善団体のメンバーによって、翌1901年に結成されたものである。1906年に参政権要求のためのセクションを設けたが、原則として「非政治」を掲げ、なによりも女性の家庭内での地位向上や社会事業への参加を訴えることに重心をおいており、中絶に対しても反対決議をあげている 。
 1908年は、この主流派がオークレール、ペルティエらの「過激」な運動と訣別し、フランスの女性参政権運動の「穏健で合法的」性格を画する年となった。この年5月、パリ市議会選挙に際して、コーフマンとオークレールが投票所に赴き、投票箱をひっくり返したのに続いて、ペルティエは投票所に石を投げて窓ガラスを割るという暴挙に出て取り押さえられ、罰金刑を言い渡されたのである 。このような暴力は、決して許されないというのが穏健派フェミニストたちの考えであった。「フランス女性全国評議会」の非公式の機関誌『フランス女性(La Fran溝se)』(1908年6月28日)は次のように書いている。「私たちは、イギリス女性の権利要求の方法に真っ向から反対します。彼女たちが採用している公での暴力的な示威行動は、かの地では合法的なものとされているのかもしれませんが、フランスのスタイルとは本質的に相容れないものだと思われます。それはフランスの私たちの運動にとって有益であるよりも、むしろ害があるものでしょう。」 実際、「女性の連帯」のメンバーでさえ、ペルティエの行動に随わない者が多かったのである。
 1909年には、この「フランス女性全国評議会」をはじめいくつかの共和主義フェミニストの団体が集まって、「フランス女性選挙権同盟(UFSF)」が結成され、各地に支部が設けられて運動は全国的な広がりをもつことになる。さらに1914年にはこの同盟から「女性投票権全国連盟(LNVF)」が生まれ、同年の下院選挙期間に当時の大新聞の一つ『ル・ジュルナル(Le Journal)』の協力を得て、女性の投票権についての「意見投票」を実施し、50万を超える賛意を集めた。その直後に開催された、女性の権利運動の祖としてのコンドルセを記念する集会と行進には、5,000人を超える女性たちが結集して運動を盛り上げた。すでにオークレールは同年春に亡くなっており、ペルティエもこの運動に加わることはなかった 。
 この女性参政権運動の最高潮は、第一次大戦の勃発によって一挙に沈静化する。大部分のフェミニストたちは「祖国への献身」にはせ参じた。「大多数のフェミニスト・グループが、縫い物サークルになりさがった。・・・わたしはこの11年間、靴下を編むようになるためにフェミニスト・プロパガンダを実行してきたわけではなかった。わたしは『女性の連帯』の会を招集するのをやめる方がよいと思った。」 ペルティエは、自らの活動基盤であったフェミニスト・グループを閉じ、戦後、参政権運動が再興されたときも、この戦線に戻ることはもはやなかった。実際、その後の参政権運動は、ペルティエのような過激なフェミニストを必要とはしなかった。保守的、カトリック的女性団体さえもが参政権を求めるようになるからである。しかし、1919年、25年、32年、35年と女性参政権を認める法案が下院で可決されながら、どれも上院で可決されず、参政権の実現は1944年を待たねばならない。  このような流れのなかでペルティエの参政権活動をみるならば、そこには「なんら興味をひきつけるものはない」という否定的評価が生じるのも頷ける。ペルティエはせいぜいオークレールのような急進的フェミニストの跡をたどったにすぎず、戦術的にも新しいものはなく、理論的にもなんら進展をもたらさなかったと、L.KlejmanとF.Rochefortは書いている。それどころか、ペルティエの独断的で個人主義的な言動が、支援ないし協力しようとする女性たちを排除することになってしまったとみなされるのである 。
 確かに、女性参政権運動への女性・男性の幅広い支持を得るという点では、ペルティエの活動は「失敗」であった。しかも同じように「過激」な行動を採用しつつ、フランスにおける女性参政権運動の創始者としての価値を認められるオークレールと比較するならば、ペルティエは明らかに影が薄い。しかし、理論的にも運動論的にも、オークレールの追随者にすぎないとして、無視してよいのかどうか。ペルティエのフェミニズムにおける参政権の位置づけは、オークレールらの場合とはかなり異なっているように思われる。項を改めて、この点を検討しよう。

3,女性参政権擁護の論理とペルティエ

 女性参政権の主張は、フランスに限らず、根強い反対論に対抗してその要求根拠を示さねばならなかった。舘かおるは、女性参政権賛成論がおおむね三つに分けられるとして、以下のように書いている。「第一に、『男性に与えられる政治的権利を女性にも与える』という参政権権利獲得論、第二に『女性の地位を向上させるため』、『子どもや夫に先立たれても他の男子の世話にもならず終生を全うできるような社会制度をつくるため』に参政権が必要であるとする参政権手段論、第三に『女性が政治に携わることは政治をもっと実生活に触れしめる近道』、『行き詰まった男子の政治を打破するため』に必要という参政権効用論である。」

(1)「共和国の正義」
 フランスにおいては、なによりもまず、上記第一の原則的な同権論が歴史的に大きな位置づけをもっている。それはフランス革命の諸原理(人及び市民の権利、国民主権)であり、第三共和政がまさに「共和主義」としての正統性を主張するための原理原則に関わるからである。「女性の政治的存在としての要求が、最初に表明されたのは、大革命においてである」で始まるペルティエの「女性の投票問題(La Question du vote des femmes)」(『社会主義レビュー(La Revue socialiste)』1908年9月号及び10月号) は、グージュやラコンブらの名とともに、男女平等を求めるフェミニズムがフランス革命にその起源をもち、1848年第二共和政下で、そして1870年パリコミューンの女性たちの政治的平等要求へと発展したことを強調している。しかし実際の政治的闘争は女性を犠牲にして、男性たちの自由と諸権利の要求のみのために展開されてきたのであり、女性をこのように政治的無権利状態に置くことは共和国の大義に反し、「不正」「詐欺」だと断罪される。このような見方はもちろんペルティエに固有のものではなく、オークレールはもとより、フランスの戦闘的女性参政権運動家に広く共有されている。
 「わたしたちの要求は新しいものではありません。それは『市民』という言葉と同じほど古いものです。すでに大革命のとき、・・・『人の権利』が起草されるに際して、何人かの勇敢な女性や寛大な男性たちが、この『人』という言葉に、『男性個人』という狭く間違った意味ではなく、『人間』というより広い完全な意味を付与しようとしました。」新マルサス主義運動に加わって「自由な母性」を主張したネリー・ルセル(Nelly Roussel)は、先に述べた1914年結成の「女性投票権全国連盟」に加わって、このように演説し、加えて次のように明言している。「わたしたちは、あなた方(男性)がそうであると同じ『市民』になることを望みます。同じ条件で、そしてまさに同じ根拠によって。」
 第三共和政が7月14日を国民の祝日とし、ラ・マルセイエーズを国歌に指定して、フランス大革命との連続性を強調して確立されたものである限り、基本的には、女性参政権の擁護は自然権の主張の革新性に訴えればよかった。すなわち、圧制からの身体と精神の解放、「生まれながらの自由と平等」の理念を想起させ、にもかかわらず女性の排除によってこの理念が地に墜ちていることを、共和主義の名によって告発することである。「人類の平等は共和国の目標である。共和国と正義とは同義でなければならない」とオークレールは「女性たちの選挙プログラム」のなかに書いている 。
 正義が実現されないのは、女性に対する男性の権力支配のためである。この点でオークレールもペルティエもともに、批判の的を外すことはなかった。「フェミニズムに敵対するものとして、わたしたちが見いだす第一の障害は、男性のエゴイズムとプライドである。今日の大部分の男性にとって、女性は依然として対等な人間ではない。男性は女性を、情欲を満足させるために際限なく利用しうるもの、家庭の仕事を遂行させ、種の再生産を行わせておくにふさわしい劣った創造物だとみなしている。・・・男性はその性器ゆえに優れていると思っている。」 ペルティエが「ただ男であるというだけで」もっとも貧しい男性でさえ、もっとも富裕な女性を見下すと述べるとき、富や階級を超えた性差別の存在が浮き彫りにされる。オークレールもまた、男性の暴政から女性が自由になるために参政権が不可欠だと主張する。「女性を奴隷にする法律を破棄する権力を女性がもたない限り、男性は自分たちの領域をさらに拡大する法律をつくるのに力を注ぐ。1700万人の主君である男性と、1700万人の奴隷である女性が存在するこの国において、男性が重要だと考える諸改革は、男性にさらなる特権を付与する改革である。」
 圧制に苦しむ者たちは正義を求めてついには立ち上がり、革命が起こる。1848年には、富ゆえに権力から排除された男性たちが「主権者」たる権利を求めて獲得した。では、「被抑圧者のなかの被抑圧者である」女性たちもまた、「革命」を起こすべきなのか。
 第三共和政下の多くのフェミニストたちは、共和主義政権の維持という枠組みに自らを限定することで運動の穏健化、体制内化を招いた。実際、第三共和政は、成立時の混乱を克服した後も、世紀末にはブーランジュ事件、ドレフュス事件などに揺れ、他方で貧困と社会問題、それを背景とする労働運動やアナーキストの暴力事件に脅かされていた。女性参政権要求は、このような共和政の動揺を拡大する方向ではなくて、その安定と繁栄に寄与するものとして主張されなければならなかった。すなわち、女性たちの置かれた困難と劣悪な地位の改善は、参政権を真に「普遍」化して共和国の大儀を実現することで可能であり、それが同時に病んだ社会を治癒し、よりよいものへと発展させることにつながるという主張である。このような女性参政権「手段論」及び「効用論」こそ、共和主義の原理に立って女性の権利を要求する多くのフェミニストの論拠となったのである。

(2)「女性性」による社会改良をめぐって
 「秩序、節約、忍耐、才覚など女性の特性は、男性の性格と同様に、社会にとって有用であり、これまでしばしば見過ごされてきた法の確立を促進するだろう。
 女性の投票権は重要な社会法の成立を確かなものにするであろう。
 すべての女性は以下のことを望む。
 男性以上に女性を苦しめている飲酒癖と闘うこと。保健と福祉の法を確立すること。女性及び児童労働の規制を勝ちとること。若い女性を売春から守ること。そして最期に戦争を防止し、国家間の紛争を仲裁裁判所に付託すること。
 女性が投票権を獲得した国々で、それによってなにが達成されたかを検討するならば、フランスにおいても、女性が投票するとき、これらの緊急の諸改革すべてが実現すると期待して間違いないとわかるだろう。」
 これは先に触れた「フランス女性選挙権同盟」のフランシュ・コンテ支部がブザンソン市の市議会に1913年提出した報告の一部である 。このような女性参政権「効用論」はフランスに限らず多くの国の女性参政権運動において主張されたが、それは決して穏健なブルジョワ・フェミニストだけのものではなかった。オークレールもまた、革命騒ぎを避け、女性の政治参加によって平和裡に社会改良を進めることができると考えていた。「女性の問題はゴルディオスの結び目である。それを断ち切ることで、社会問題を解決することが可能になる。」「女性たちを参加させ、人類の現実の必要が求める諸改革を達成するために必要な美徳をもたらさなければ、遠からず革命が生じるだろう。しかし、革命は解決にはならないことは明らかである。なぜならそれが成功したとしても、それはほとんど、圧制者から被圧制者へと権力を移し替えるにすぎないからである。」
 ペルティエが第三共和政下の大多数のフェミニストと、そしてオークレールとも大きく異なるのがこの点である。後述するようにペルティエは社会革命への夢を捨てきれなかったし、なによりもフェミニストたちが主張する「女性役割」や「女性的特質」の価値を認めなかった。そのような価値に参政権の根拠を求めることは大きな間違いであった。「フェミニズムは、漠然と母と主婦の社会的価値を評価し、男性の悪徳に女性の美徳を対比させることをやめなければならない。わたしたちは男性の敵なのではない。平等を求めている、ただそれだけなのだ。他のなににもまして重要なのは投票権の問題であり、フェミニストの活動はそれに向けられなければならない。」 「女性の権利要求を、より広い社会的な福祉に根拠をおいて行うべきではない。その正当化の理由を別のところに求める必要はない。その要求はそれ自身で正当化されうるものである」と主張する 。
 もちろんオークレールが性別分業を批判しなかったわけではない。女性が職業をもち経済的に男性から自立することを主張するオークレールは、同時に「女性が生産的仕事をする可能性を手にするためには、男性が非生産的労働を分担しなければならない」と書き、「家事をすることに対する男性の嫌悪は、その性に本来的なものではない。」「妻という名の無償の女中を手に入れられなければ、あるいはそれを失ってしまえば、男性たちは自分でなんとかすることを学ぶであろう」と明言する 。しかし、先に触れた「女性たちの選挙プログラム」の第9項は「男性たちには兵役が、女性たちには人道的な奉仕が義務となる。国土の防衛は男性たちに委ねられ、子ども、高齢者、病人及び障害者への援助は女性たちに委ねられる」 と書いて、国家、社会への貢献における差異を是認している。オークレールにとって男女の差異をなくすことは不可能であり、また望ましくもないことであった。「すべての人間が同じ役割を果たすことはできない。反対に、役割の多様性こそが社会の善き調和に不可欠なものである。すべての人間に課される義務は、一人一人異なる。」 社会的機能・役割の違いが権利の不平等をもたらすべきではないというのがオークレールの基本的立場であり、「差異のなかの平等」主張であった。
 それに対してペルティエは「女性的なもの」を徹底して否定する。現存の「女性性」は「女性の特殊な状況」がつくりだしたものにすぎず、ペルティエにとって大概それは「奴隷の心性」を示すものだったからである。「女性が男性にはない特別の管理統治能力をもっていると主張するのは馬鹿げている。確かに一般に女性は男性より善良で、犯罪的行為はもとより単純な不道徳行為にはしる者も男性より少ない。しかしそれは女性の特殊な状況、すなわち闘争のらち外に置かれてきたという状況からくるものである。」 「どんな社会的地位にあろうと、すべての女性は子ども時代、青春時代を通して隷属者として育てられる。それゆえ女性がもっとも大胆な要求をしようとするときでさえ、奴隷の心性が現れてしまう。」
 心理学、人類学を批判的に学ぶなかで、「人が自らの諸条件をつくり、諸条件が人をつくる」 という確信を抱くようになったペルティエからみると、隷属に結びついて形成された現存の女性性にアイデンティティを見いだすフェミニストたちは、女性の隷属の永続化に手を貸すものに思われた。女性のアイデンティティは新たにつくり直すことができるし、つくり直さなければならなかった。「投票権と公務への被選挙権は、女性たちの心性を変容させ、生活態度を変えるであろう。・・・もっと高く評価されることで、女性たちを劣ったものにしている臆病さはなくなり、女性たちは対等な人間として男性に話しかけるであろう。」
 ペルティエにとって、女性参政権は、妻として母としての女性の地位を向上させるためのものでも、病んだ社会を女性的価値で救うためのものでもなかった。それは奴隷的心性にとらわれた女性がそれを脱し、自らの生の主人公になるための、自律的「個人」となるための不可欠のステップであった。

4,ペルティエの個人主義フェミニズム

(1)「女なしのフェミニズム」の力
 「女性が投票権を手にすることによって、公的生活への参入を勝ちとったとき、女性はその名にふさわしい個人となるであろう。」
 1944年女性参政権が実現した以後の状況をみれば、ペルティエのこのような期待はまったく的はずれであり、政治的権利の獲得は女性をただ「二流の市民」にしただけであるといえるだろう。公的世界は依然として男性のものであり、参政権獲得後ようやく50年を経て議会の男女同数をうたう「パリテ」要求が実現しようとしているのである。しかしJ.W.Scottは、ペルティエが投票権の限界を知りつつ、それを、女性解放の不可欠な通過点として考えたのだと述べている。ペルティエの最終目標は、女性が参政権獲得によって「市民化」することではなく、「市民」を超越するエリート女性を創出することであったとみなされる 。なぜなら、ペルティエの時代に「市民」であることは、もはや独立した自律的「個人」を保証しなかったからである。
 J.W.Scottによれば、18世紀末には封建的特権とそれによる圧制・搾取を批判する革新力をもっていた「市民」としての「個人」概念は、19世紀末・20世紀初頭には大衆政治を構成する単なる「数」になりさがっており、真に自律的な個人はその卓越した知性(あるいはベルグソン的なパッション)によって大衆から離脱しうる少数のエリートのみであるという考えが流布した。日本にも知られる『群集心理』の著者、ギュスターヴ・ル・ボンがその代表的論者であり、彼は大衆不信をもっとも雄弁に代弁した 。ペルティエもこのような世紀末のウルトラ個人主義の言説にとらわれつつ、しかしその議論を「男/女」の境界に揺さぶりをかける形でつきつめた。大衆化した「市民」と卓越した「個人」とが対比され、この「個人」の卓越性が、慣習・規範をうち破り、与えられた言葉と意味の枠内で生きるのではなく、自ら意味をつくりだすことに置かれるとき、「男性=市民=個人」というそれまでの等置に裂け目が生ずる。ここに「市民」と「個人」とを「脱性化」しようというペルティエの突破口があった。参政権によって女性を「大衆=市民」に格上げしつつ、同時にエリート女性を「個人」に立ち上げるという「二段飛び」をペルティエは行おうとしたのだとJ.W.Scottは論じている 。
 実際、ペルティエはしばしば「少数者」の力を強調する。「大衆は置かれた状況を変革できると理解することさえなく打ちひしがれている。しかし、長期的には、エリートの諸個人の影響力で、社会変革が実現される。このようにして・・・ブルジョワジーは貴族に勝利したし、プロレタリアートはブルジョワジーに勝利するであろう。そして女性もまた男性の後見から解放されようとしている。」 少数の優れた個人が指導する革命的運動のなかで、初めて大衆は問題を理解し始める。「自分たちが嘆いている不幸の原因を女性たちに理解させることは非常に難しいが、革命のときには女性たちは直ちにそれを発見する。」 「わたしが求めているのは、世界を変えることである」 と主張し、社会党内の過激派に属して革命を夢見たペルティエにとって、重要なのは、社会変革をリードし、性や階級の分断を超えた新しい社会秩序を形成するために、性を問わないエリート個人を生成することであった。女性たちに市民としての政治的権利を付与し、「市民」や「諸権利」から「性」を引き剥がし、法によって形成されてきた「女性」という社会カテゴリーを解体することで初めて、「完全な自律者、独立的で自己完結する個人として、自らを自覚する可能性」が開かれると考えたのである 。
 このような見方に立てば、ペルティエの「女嫌い」は理解しやすい。「現在あるがままの女性をわたしは好まない。奴隷の心性はわたしを憤慨させる。」 「かごのなかで生まれ、自由な生など思いもしない鳥のように、女性は閨房の外に出ることを考えない。最大限大胆な望みといえば、閨房を住みやすくしようとすることだけである。それを打ち壊し焼き尽くすべきであるというのに。」 「女性の連帯」の仲間たちさえペルティエを失望させる。「仲間とわたしは両極に位置する。・・・この女性たちは嘆く。『ああ、男性たちが義務を果たしてくれさえしたら!望むのはそれだけ。わたしたちは男になりたいわけじゃない』と。だが反対にわたしは、女性は社会的な意味で男にならなければならないと考えているのだ。」
 女性が「セックスである以前に個人である」ことは、ペルティエにおいては女性が「男性化」することでしかありえなかった。「女性に欠けているのは、人格としての性格・尊厳である。・・・女性にとって絶対に必要なのは性格の男性化である。」 それを目に見えるようにするものがペルティエの男装であった。衣服という身体表象におけるペルティエの男装の意味については本稿とは別に考察するつもりであるが、ここでの問題に関わっていえば、「女性の服装」を女性の隷属のしるしと考えるペルティエには、「男性の服装」以外の選択肢は当時存在しなかった。参加した国際会議で目にした著名な社会主義女性たちの服装を批判しながらペルティエは書いている。「わたしは人間ではないのか。政治的理念を披瀝するのに、なぜ寝室を思いおこさせるようないでたちでなければならないのか。」 ペルティエにとって、社会的に「女性」を構築するあらゆる慣習・規範に抵抗し、それを否定することなしに自律的個人はありえなかった。服装に典型的にみられるように、すべてを「女か、あるいは男か」に分断することによって非対称的力関係を構築している時代にあって、「女性」という社会的カテゴリーを解体する力は、「男性的個人」にしかないと考えたのである。
 このようなペルティエの「強い個人」志向は、さしあたり、二重の意味で「失敗」であったとみられるであろう。第一にそれは女性たちを運動へと結集させるどころか、反発と拒否を引き起こした。男性たちはもとより「フェミニストたちもわたしを好まなかった」とペルティエは回想している 。先に触れたL.KlejmanとF.Rochefortの否定的評価もここに関わっている。女性たちは、自分たちの置かれた状況を語り合い、否定され卑しめられた自己を回復し、女性であることを主体的に肯定的に意味づける必要があった。「女性の連帯」をはじめ、多くのフェミニスト団体がもっていたこのような意義をペルティエは理解できなかったどころか、女性性を否定することで、女性たちにさらなる自己否定・喪失感をもたらしたとみなされるのである。このようなペルティエに連帯する女性が少なかったのは当然であるとL.KlejmanとF.Rochefortは述べている 。
 第二に、今日明らかなように、「強い個人」女性による男性の世界への進出は、性別秩序を根本から変えることはつながらないだけでなく、女性における「女性身体」の否定を要求する。「産む身体」を捨て去って確立される「個人」が、女性解放の目標でありえるのか。「母になることよって、女性は、尊厳を自覚する個人であることを止める」と書くペルティエのフェミニズムは、戦闘的フェミニストでさえ受け入れがたかった。
 「女性性」を否定し、身体まで含めて女性を去勢することを求めるペルティエのフェミニズムは、「女なしのフェミニズム」 であったといわれるのである。
 しかし、このようにペルティエを「失敗者」とみなして切り捨てるなら、ペルティエを拒否し葬り去ってきた歴史を、今度はフェミニズムの名において繰り返すことになろう。J.W.Scottが試みたのは、歴史具体的な政治状況、政治言説のなかで、フェミニズムが示す矛盾や困難を、フェミニストの無力さや論理矛盾などに帰因させるのではなく、政治言説それ自体の矛盾や失敗を露わにするものとして示すことであった 。ペルティエは、19世紀末・20世紀初頭の個人主義言説が、「性」の視点を立ててつきつめるならば、とことん矛盾し破綻するものであることを暴露した。男性思想家たちは、一方で性的差異を自明なものとして前提しつつ、他方で慣習や規範に規定される集団アイデンティティを超越する者として「個人」概念を定立したが、ペルティエからみれば、「女性」という社会集団も、社会的に強制された一連の獲得慣習に由来するものとみなされるべきだったからである。ここにこそ、ペルティエのフェミニズムの力があったとJ.W.Scottは考えるのである。

(2)「母性」による「女性市民化」に抗して
 「女性」の名による「女性」の解体をめざすペルティエのフェミニズムは、男性化された「個人」概念に立とうとする限り、生殖やセクシュアリティの問題を避けては通れなかった。ここにおいてペルティエのフェミニズムは、J.W.Scottが論じなかったもう一つの政治状況、政治言説を相手にしなければならなかった。そしてこの側面での闘いの困難こそが、ペルティエをエリート主義的ウルトラ個人主義へと駆りたてたように思われる。
 第三共和政下の自由主義言説のなかで、J.W.Scottが参照枠としているル・ボンらの主張は、それなりに人気を得ていたとはいえ、政治言説の主流をなしていたわけではなかった。あくまで主流は「権利の平等」原則にもとづく民主主義的自由主義であったといわれる 。そしてそこにおける「個人」概念は、社会に埋没せず大衆から超越した強い自律的個人というル・ボンらの考えとは、大きく異なっていたし、もちろん18世紀末の「個人」でもなかった。確かに19世紀末にいたっても、自由主義にとって自由で責任ある個人はいまなお最高の理想であり、自然法的論拠は権利の観念の大衆的理解にもっとも有効なものであり続けていた。しかし、産業社会の発展とそれにともなう社会問題の噴出にたいする国家の活動の拡大を前に、極端な個人主義がもたらすアナーキズムを避け、かつ国家による個人の抑圧をも避けながら、国家及び社会と個人との関係を新たにとらえ直そうとする自由主義者たちが政治的言説を支配し始めていた。それは、一言でいえば、デュルケームらの社会学を基礎とする「新自由主義」言説であり、福祉国家構想へとつながる「連帯主義」の登場を示すものであった。ここでは、個人の自由や権利は、個人から導き出されるのではなく、社会から生ずるのであり、権利の確立は国家の仕事であると考えられた 。
 権利の獲得によって女性を「個人」化しようとしたペルティエの考えは、個人と権利との関係に限ってみれば、この新自由主義の言説と必ずしも敵対的であるわけではない。J.W.Scottも「ペルティエの考えでは、権利とは、すでに存在する主体の承認ではなくて、自律的主体を創造する手段であった」と述べており 、法の力なしに「個人」は生成しえないことをペルティエは認めていた。
 しかしながら、この新自由主義による新たな「平等と差異」の言説がもたらす政治状況は、ペルティエにとってきわめて危険なものに思われた。新自由主義は類似・同一がもたらす連帯ではなく、分業の結果としての連帯を主張することで、社会的差異にもとづく個人の自由と平等主義とを調和させようとした。ただし、性的差異は自然にもとづくものとして、ここから排除した。こうした排除は決して新しいものではないが、問題はこの新たな「平等と差異」の言説が、女性の権利要求の議論を、自然法を論拠とする原則論から「社会的機能・役割」論へと導いてしまうことであった。実際、オークレールが有機的連帯の議論に依拠して女性参政権を要求したことはすでに述べたとおりである 。オークレールの次の世代であるペルティエには、この新自由主義は単に政治哲学の論議というより国家的実践に関わる議論となっており、具体的には女性・母性に関する政策介入を基礎づける論拠となっていたのである。そしてペルティエが決して容認できなかったのは、このような国家による差異化であり、「女性性」の新たな定式化であった。
 19世紀末・20世紀初頭のフランスにおける人口減退の政治問題化、及びそれがもたらした母性・母子政策の詳細に関しては、それへのフェミニストの対応・関与とともに、A.Covaらの研究 に譲りたいが、一言でいえば、女性を「共和国の母」として「国民化」する一連の政策が、人口成長の鈍化、とくに第一次世界大戦による大量の人口喪失とともに、最重要の国家的政策となり、これに対応して「母の権利」言説がフェミニズムの議論を牽引するようになっていた。もちろんすべてのフェミニストが、祖国のために子を産むことを女性の義務と考えたわけではなく、また、女性の権利がすべて「母の権利」に集約されると考えていたわけでもなかった。さらにまた、母性の「選択」可能性に関しては、フェミニストの間には埋めがたい対立があった。しかし、それでも大多数のフェミニストは、母性の社会的価値を認め、それにたいする国家の保障を要求するという点では一致していた。先に触れたネリー・ルセルは、新マルサス主義運動に加わり「自由な母性」を主張し、穏健派フェミニストとは一線を画していたが、このルセルもまた、母性がもちうる喜びと価値を訴え、母親にたいする社会的保障を要求した 。
 このフェミニストたちの要求は、有機的に結びついた多様な役割を遂行する「市民」の自由と平等を論じる新自由主義の言説を利用しつつ、公の社会から「自然」を理由に排除される「母性」を、社会的機能として位置づけることで、「公/私」の分断をのりこえようとするものとして評価することができるであろう。しかし、それは同時に、女性を「母性」へと幽閉し、「母親=特殊な市民」としてのみ表出する危険をともなっていた。実際、母性保護を含む女性労働保護立法は、フェミニストだけでなく、社会道徳問題や国力低下を懸念する男性議員や知識人、出産奨励主義者たちの声によって成立していく。しかも他方で、すでにみたように、刑法による中絶・避妊の取り締まりをさらに強化する法令が出されるのである。このような国家権力による「女性性=母性」の強制に、ペルティエは激しく抵抗する。
 「妊娠した女性は、二人の人間ではない。ただ一人である。女性は、自分の髪を切り、爪を切り、減量したり体重を増やしたりする権利をもつのと同じように、中絶する権利をもつ。われわれの自分の身体にたいする権利は絶対である。」
 女性の身体を未来の国民、国力に関わるものとして管理・支配しようとする権力にたいして、ペルティエは、女性の経済的権利=労働権はもとより、身体への権利を含む個人の完全な自由を、譲り渡すことのできない女性の権利として主張する。「中絶に反対する唯一重要な議論は、国是の問題である。・・・しかし国家的理由は決して十分な理由ではありえない。なによりも神聖なのは個人である。他人を侵害しない限り、個人の自由は完全でなければならない。個人は望むように生きる完全な権利、子を産みあるいは産まない完全な権利をもつ。」
 女性の身体を国家的利害に従わせ、女性の生を「母性」に閉じこめようとする新自由主義的社会政策は、ペルティエにとって、「女性」を新たに、より強固にカテゴリー化することであった。それゆえに、社会と国家に基盤を置く個人の自由と権利ではなく、古典的自由主義、リバタリアニズムの個人主義に則って、「わたしの身体はわたしのもの!」と叫び続けることを、ペルティエは選択したのであろう。少なくとも、「自然的差異」を突き抜け、「女性カテゴリー」解体するには、個人主義の原点での闘いをつきつめることが重要だとペルティエは感じたのだと考えられる。

(3)ペルティエ「個人主義」の破壊力:セクシュアリティと家族の問題化
 ペルティエにおいて「母性」の問題は、単に個人と国家の関係、国家による個人のジェンダー化の問題にとどまるものではなかった。ペルティエは、「母性」をセクシュアリティにおける男女の不平等の枠組みにおいて論じたのである。
 セクシュアリティにほとんど言及することのなかったフランス第一波フェミニズムのなかで、「女性もまた性欲をもつ」とペルティエは明言し、セクシュアルな関係において女性が貶められることなく平等に性欲を満たすことができなければならないと主張する。しかし、女性が劣った存在だとみなされる社会にあっては、「性の喜びは男性のものである。女性は男性が快楽のために利用する道具にすぎず、まるで果物のように消費される」にすぎない 。女性は性的身体として男性に差し出される客体である。女性が経済面で男性依存から脱却し、政治的権利を得て「個人」としての尊厳を獲得しない限り、このような性的奴隷状態は変わらない 。ペルティエは、トゥルーズの若きフェミニスト、アリア・リー(Arria Ly)への手紙のなかで、自らがヘテロセクシュアルな欲望をもち、男性を憎んでいるわけではないとしながら、次のように書いている。「あなたと同じように、わたしは結婚しないだろうし、おそらく愛人をもつこともないであろう。なぜなら現在の状況のもとでは、性的関係は、結婚している女性にとっては屈辱的であり、未婚の女性には侮蔑をもたらすものだから。・・・しかしわたしのような人生を正常なものとして推奨することはできない。それは女性が不正な状況に置かれていることの結果にすぎない。」
 経済力をもち、自己を確立した女性が、自らの喜びのために男性と性関係を結ぶとき、確かにそこには平等的関係が成立しうるかもしれない。「しかし女性の前に一つの強力な障害が立ちはだかる。子どもである。」「欲望が満たされたとき、男性は自由にたち去ることができるのにたいして、女性の方は母性を引き受けなければならないとしたら、性愛における平等を語ることなどできるだろうか。」
 ペルティエにとって、権力構造を内包するヘテロセクシュアルな関係にあっては、「母になるかならないか、いつなるのかを決定するのは、女性だけでなければならない」 。当時のフェミニストの多くが、売春の廃絶を訴え、未婚の母の窮状を改善するために活動しながらも、自己の過ちとして快楽の悲惨な結果は耐えねばならないとし、純潔モラルの両性への拡大を主張したときに、ペルティエは女性の性欲と快楽への権利を擁護し、さらにそれを保障するために、「中絶の権利」まで要求したのである。
 このようにヘテロセクシュアルな関係における女性の主体化=個人化を主張し、「母性」をその主体化の障害とみるペルティエの議論は、必然的に「家族」の問題に行きつく。 ペルティエにとって、家族は女性を性的奴隷化する制度であり、女性が主婦・母親として「奴隷の心性」を生きる「鳥かご」「閨房」であった。同じく隷属状態に置かれているといわれる労働者とは、明確に異なる状況が女性にはある。「女性の道徳的隷従は、下層階級のそれに比べてはるかに深い。・・・いったん仕事が終われば、労働者はボスと離れて生活する。・・・男女の間には同様の状況は存在しない。家族制度が男女に共同生活を送らせる。主人は自分の家に奴隷を囲っているのである。」 「本当に恐ろしいのは、結婚においてさえ、女性たちが売春婦であることだ。」 このような性的奴隷制から女性を解放するためには、あらゆる面で男女平等を法制度化するだけでなく、ベーベル、コロンタイらの主張するような家事・育児を社会化を断行し、家族ではなく個人を単位とする社会をつくりだす必要があると考えた 。そしてそれを実現する社会革命として、ロシア革命に期待した。革命後のロシアの現実を見聞して夢やぶれた後も、ペルティエはユートピア小説でこのような世界を希求することになる 。
 このように「母性」そして「セクシュアリティ」から「自然性」を引き剥がそうとしたペルティエは、「家族」の「自然性」をも否定することになった。これは、20世紀初頭フランスの家族主義 を否定するにとどまらず、18世紀以来「個人」概念、個人の「自由」の概念を支えてきた支柱を打ち壊すことでもあった。19世紀の自由主義者にとって、「自由」とはなによりも「依存していないこと」、独立を意味するが、その独立とは自分自身の家庭をもつこと、家族をもつことであるとされ、「家族を持つことによって、男性は、他者(家族の成員)に対する権威の行使を通じて自らの能力を行使する機会を与えられる」と考えられていた 。「市民の自由は父親の権威というものに依拠している」のであり、男性が「個人」であり「市民」であることは、女性が男性の権威に属する家族成員として存在することとセットになっているのである。「男性=個人=市民」による平等な参加を原則とする政治世界に、女性を男性とまったく同じ資格で組み込むためには、男女の「自然的」相補性にもとづく「家族」それ自体を解体することが必要であった。
 このように、女性の「個人」としての確立のために参政権を要求したペルティエの主張は、女性の「個人化」を妨げるセクシュアリティと家族の問題にまで行きついた。その徹底した個人主義こそが、ペルティエのフェミニズムをこの問題領域へと導いたのである。しかし、それは第一波フェミニズムの地平を超え出てしまうものであった。「明らかにわたしは、何世紀か生まれるのが早すぎたのだ」とペルティエは日誌に書いている 。

おわりに

 ペルティエの生涯とその主張は、1970年代に「発掘」されて以来、何人かの研究者をひきつけてきた。第三共和政下の社会主義とフェミニズムの関係についての研究からペルティエに出会ったM.J.Boxerは、「もし『第一波』のフェミニストで、現代のフェミニストの会合に顔を出し、あたかもランチ・ブレークから戻っただけであるかのように作業にとりかかることができる者がいるとすれば、それはマドレーヌ・ペルティエだろう」 と述べて、ペルティエのフェミニズムが「今日的」論点を先取り的に組みこんだ包括的なものであると評価している。少し違った観点からであるがC.Mitchellもまた、フランスにおいてボーヴォワール以前のフェミニスト思想として、ペルティエのそれがもっとも興味深いものの一つだと述べている 。「個人的なことは政治的なこと」とし、家族や性関係における女性抑圧を告発して、「わたしの身体はわたしのもの」と主張するラディカル・フェミニズムの萌芽が、すでに20世紀初頭のペルティエにおいてみられたことは、第一波フェミニズムについての新たな検討を求めるものであった。
 しかしながら、差異にもとづく穏健な権利要求に終始するブルジョワ・フェミニズムという、フランス第一波フェミニズムにたいする評価を、その主張のすそ野の広さや多様性によって修正すること、あるいは、特定フェミニストの「先見の明」を指摘することで変更することが重要なのではない。J.W.Scottが試みたのは、フェミニズムの歴史を「進化論的」「発展段階的」に解釈することではなく、フェミニストの主張の矛盾がもちえてきた破壊力を明らかにすることであった。フェミニズムを生み出しつつ、フェミニズムによって批判あるいは利用された政治言説そのものの矛盾こそ、フェミニズムの力を生むというのがJ.W.Scottの主張であり、ペルティエの過激な個人主義フェミニズムは、まさにこのような矛盾の強力な破壊力を示すものとして評価されるのである。
 とはいえ、本論で述べたように、ペルティエのフェミニズムを、ル・ボンらのウルトラ個人主義言説のみを参照枠とすることで理解できるとは思われない。ここでは、とくに19世紀末から20世紀初頭の社会政策をリードした「母性」主義に関わって、国家権力による「女性」概念の再編の問題を取り上げたが、それは徹底した個人主義的平等論によって、女性から「女性性」を引き剥がしてきたペルティエが、ぎりぎりのところで直面する性的身体が立ち上がる地点でもあった。ペルティエ自身は、性的身体を抑圧する道を選択し、生涯男装を通し、夫も子どもも愛人ももたなかった。とはいえ、これが本当の矛盾の解決にはならないことは、ペルティエも自覚していた。参政権獲得をへて確立されるはずの「個人」と、性的身体との矛盾のなかで、ペルティエは「挫折」したように思われる。しかしながら、その「挫折」をもたらしたのは、ペルティエ自身の力のなさではない。ペルティエのフェミニズムを破産させたのは、個人的諸権利の「普遍性」と性的差異の「普遍性」とを同時に基盤として成立するフランス共和主義であり、ペルティエを社会から葬り去ったのは、「普遍的母性」の上に社会政策を積み上げようとしたフランス共和国であった。
 では、フランス共和国は、ペルティエにとって何だったのか。労働者街で、7月14日の「共和国万歳」の叫び声と爆竹に心躍らせたかつての少女は、第一次世界大戦が引き起こした人々の無意味な熱狂と死を前に、「共和国は二度と『爆音をあげる』ことなどないであろう。・・・『共和国万歳』バン、バン。・・・それは人が殺され、存在しなくなるであろうという意味だ」と書く。それだけでなく、戦時ナショナリズムはフェミニストはもとより社会主義者たちをも変えてしまった。「社会主義は、実際、ジョークにすぎなくなっている。」 ペルティエはナショナリズムから、社会主義から、そしてフェミニズムからも身を引いて「厭世主義」的個人主義に退却してしまうのか。フェミニスト・ペルティエの社会主義や無神論的共和主義等に関しては、別の機会に論じてみたい。


                 i.       Offen, K., Defining Feminism: A Comparative Historical Approach, Signs, Vol.14, No.1(1988), pp.119-157. この翻訳が「フェミニズムの定義づけ 個人主義的フェミニズムと関係主義的フェミニズム」として、『日米女性ジャーナル』No.3、1988年、34-54ページかなり省略意訳された形で掲載されている。

                   ii.       [1] この「関係主義的(relational)」という用語は、以前にOffenが使用していた「家族的(familial)」という用語に代えて用いられている。「家族的」では「男性支配の家族のイメージを(誤って)読者に呼び起こす」ことを懸念して放棄したことをOffenは書いている。Ibid., p.135.

                    iii.       [1] Ibid. p.144-145.

                     iv.       [1] Scott, J.W., Only Paradoxes to Offer. French Feminists and the Rights of Man, Harvard University Press, 1996. このフランス語版 La citoyenne paradoxale. Les f<ministes fran<aises et les droits de l'homme(Edition Albin Michel , 1998)をも参照。

                    v.       [1]  ペルティエに関しては、ペルティエの著作から若干のものを収録し、解説を付した本、Madeleine Pelletier: L'<ducation f<ministe des filles (Preface et notes Maignen, C.), Syros, 1978 のほか、次の3冊の本が出版されており、以下の記述はこれらによる。Bard, Ch. (dir.), Madeleine Pelletier (1874-1939): Logique et infortunes d'un combat pour l'<galit<,  C<t<-femmes <ditions, 1992, Gordon, F., The Integral Feminist: Madeleine Pelletier, 1874-1939, Feminism, Socialism and Medicine, University of Minnesota Press, 1990,  Sowerwine, Ch. & Maignien, C., Une F<ministe dans l'ar<ne politique,  Les Editions ouvri<res, 1992.

                     vi.       なお、ペルティエに関する論文としては以下がある。Boxer, M.J., When Radical and Socialist Feminism Were Joined: The Extraordinary Failure of  Madeleine Pelletier, in Slaughter,J. and Kern, R. (ed.) , European Women on the Left: Socialism, Feminism, and the Problems Faced by Political Women, 1880 to the Present, Greenwood Press, 1981, pp.51-73, Boxer, M.J., Placing Madeleine Pelletier: Beyond the Dichotomies Socialism/Feminism and Equality/Difference, History of European ideas, Vol.21, No.3(1995), pp.421-438, Largilliere, A., Madeleine Pelletier: Femme, m<decin, f<ministe, P<n<lope, no.5(1981), pp.68-72,  Mitchell, C., Madeleine Pelletier (1874-1939): The Politics of Sexual Oppression,  Feminist Review,  No.33(1989), pp.72-92,  Sowerwine, Ch., Militantisme et identit< sexuelle: la carri<re politique et l'oeuvre th<orique de Madeleine Pelletier(1874ー1939), Le mouvement social, no.157(1991), pp.9-32.

                      vii.       [1]  Doctoresse Pelletier: Memoires d'une f<ministe. この回想録は出版されているわけではない。アリア・リー(A.Ly)への手紙とともに、パリ市歴史図書館のMarie-Louise Bougl文庫にあるペルティエ・ファイルに含まれている。ここではこれを英訳したDoctoresse Pelletier: A Memoirs of a feminist, April 1933を利用している。Gordon, F. and Cross, M., Early French Feminisms, 1830-1940, A Passion for Liberty, Edward Elgar, 1996, pp.235-248.                   

                        viii.       [1]  『ラ・フロンド』は1897年、元女優のマルグリト・デュラン(Marguerite Durand)が日刊紙として創刊した。すべて女性の手でつくられ、広く女性に関わる問題を論じた。

                     ix.       [1] 「女性の連帯」は、1891年、ウージェニー・ポトニエ=ピエール(Eug<nie Potoni<-Pierre)がフェミニストの広い団結を呼びかけて結成したが、前身は「女性社会主義者連盟」であり、92年には女性の国会選挙への立候補の支持を求めている。1898年、彼女の死によりカロリーヌ・コーフマンが書記長となった。しかしこの団体は、最大でも100人規模には達しなかった。

                   x.       [1]  この事件は、加入者に妻の就労を認めていないリヨンの印刷工組合と、植字工であるクリオの妻(彼女もまた植字工として働いていた)との間に生じたもので、フェミニストや人権擁護団体、労働組合等を巻き込んで議論を呼んだ。ペルティエはもちろん女性の労働権を支持して訴えた。この事件に関しては、Sowerwine, Ch., Workers and Women in France 1914, The Debate over the Couriau Affair, Journal of Modern History, No. 55(1983), pp.411-441が詳しい。

                     xi.       [1] このロシア旅行についてペルティエは帰国後、著作 Mon voyage aventureux en Russie communisteを出版した(1922年)。現在、この著作の復刻が INDIGO & C<t<-femmes <ditionsから出版されている。

                      xii.       [1] 1920年7月31日成立した法律は、1810年の刑法317条が定める堕胎罪(中絶を施した者、受けた者ともに、3年から5年の禁固)に加えて、堕胎を教唆した者、避妊方法を普及させた者、情報を提供した者をも罰する(6ヶ月以上3年以下の禁固および100フランから3,000フランの罰金)ものであった。これは明らかに新マルサス主義を取り締まるためのものである。さらに1923年3月27日には先の刑法317条の改正案が成立し、堕胎を重罪裁判所から軽罪裁判所に移して、訴追・処罰を容易にした。1939年7月29日の家族法(第一子手当等家族にたいする手当を定めた)において、堕胎の取り締まりをさらに強化する条項が設けられ、特別取締局が設置される。これについてはCova, A., Maternit< et dorits des femmes en France(XIXe-XXe si<cle), Anthropos, 1997やジャン・ラボー著加藤康子訳『フェミニズムの歴史』新評論、1987年等を参照。

                        xiii.       [1] 収容されたとき、ペルティエはもちろん精神を病んでいたわけではない。この病院で、訪ねてきた友人のフェミニストに口述した子供時代の回想は、自らの経験の時代性・社会性をはっきりと見抜いている。この回想Anne dite Madeleine Pelletier(1939)は、Gordon, F. and Cross, M., op.cit, pp.231-235に翻訳されている。

                        xiv.       [1] オークレールについては、『女性市民』からの抜粋を中心まとめた著作と、その生涯と主張についての研究書とが出版されている。Hurbertine Auclert: la citoyenne. Articles de 1881 < 1891 (Preface et commentaire Tieb, E.), Syros, 1982, Hause, S.C., Hubertine Auclert, The French Suffragette, Yale University Press, 1987.

                       xv.       [1]  『女性参政権運動家』は1907ー8の冬に発刊され、第一次大戦まで月刊で発行されたが、戦後の印刷費の高騰、出資者の破産などにより1919年休刊した。Gordon, F., op.cit., p.87,p.153.

                        xvi.       [1]  フランスの女性参政権運動についてのもっともまとまった著作が以下である。 Hause, S.C. and Kenney, A.R., Women's Suffrage and Social Politics in the French Third Republic, Princeton University Press, 1984.  また。とくに第一次大戦後の焦点を当てたものとして、Smith, P., Feminism and the Third Republic:Women's Political and Civil Rights in France 1918-1945, Clarendon Press, 1996 がある。第三共和政下のフェミニスト・グループの主張や展開については、Klejman, L. et Rochefort, F., L'<galit< en marche. Le f<minisme sous la Troisi<me R<publique, des femmes, 1989が詳しい。

                          xvii.       [1] 罰金はわずか16フランであり、「こんな罰金では、何度でも繰り返せるであろうに」とペルティエ自身が書いている。もちろんペルティエを「当局が殉教者にする」はずがないことも、ペルティエは承知していた。Doctoresse  Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., pp.242-243.

                           xviii.       [1]  Hause, S.C. and Kenney, A.R., op.cit., p.105.

                        xix.       [1]  Ibid., pp.179-190.

                       xx.       [1]  Doctoresse  Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p.247.

                        xxi.       [1] Klejman, L. et Rochefort, F., L'action suffragiste de Madeleine Pelletier, in Bard, Ch. (dir.), op.cit., p.70.

                          xxii.       [1]  舘かおる「女性の参政権とジェンダー」原ひろ子・大沢真理・丸山真人・山本泰編『ライブラリ相関社会学2 ジェンダー』1994年、新世社、132ページ。

                           xxiii.       [1] ペルティエのこの論文も、全文ではないがGordon, F. and Cross, M., op.cit.に英訳されている。

                            xxiv.       [1] ルセルのこの演説は、以下のアンソロジーに英訳で掲載されている。Waelti-Walters, J. and Hause, S.C. (ed.), Feminisms of the Belle Epoque. A Historical and Literary Anthology, University of Nebraska Press, 1994, pp.278-190.

                          xxv.       [1]  Hurbertine Auclert: la citoyenne, p.42.

                            xxvi.       [1] Pelletier, M., Feminism and its Militants, in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., pp. 144145. これはペルティエの1909年の論文、Le f<minisme et ses militantesを英訳したもので、同書143148ページに収録されている。

                             xxvii.       [1] Hurbertine Auclert: la citoyenne, p.89.

                               xxviii.       [1] この史料、Rapport sur la question du vote des femmesは、Riemer, E.S. and Fout, J.C.(ed.), European Women. A Documentary History 1789-1945に収録された第20ドキュメント、"The Question of the Vote for Women"(pp.79-81)として翻訳されている

                            xxix.       [1]  Hurbertine Auclert: la citoyenne, p.101, p.108.

                          xxx.       [1] Doctoresse Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., pp.239-40.

                            xxxi.       [1]  Pelletier,M., La tactique f<ministe, in Madeleine Pelletier: L'<ducation f<ministe des filles, p.151.

                             xxxii.       [1]  Hurbertine Auclert: la citoyenne, pp.75-76, p.79.

                               xxxiii.       [1]  Ibid., p.42.

                               xxxiv.       [1]  Ibid., p.95.

                              xxxv.       [1]  Pelletier,M., La tactique f<ministe,  in Madeleine Pelletie,p.150.

                               xxxvi.       [1]  Pelletier, M., Feminism and its Militants, in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p. 145.

                                 xxxvii.       [1]  Pelletier, M., L'<ducation f<ministe des filles, in Madeleine Pelletier: L'<ducation f<ministe des filles, p.63.

                                  xxxviii.       [1]  Ibid., p.64.

                               xxxix.       [1]  Pelletier, M., Feminism and its Militants, in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p. 147.

                     xl.       [1] スコットの著作(Scott, J.W, op.cit.)では、第5章(125-160ページ)がペルティエを論じており、136ページ以下ではペルティエのエリート主義的個人主義についての記述が散見される。

                      xli.       [1] ギュスターヴ・ル・ボン著櫻井成夫訳『群集心理』岡倉書房、1947年。ル・ボンは群衆の精神を、女性を引きあいに出すことで論証している。「群衆の幾つかの特性は、野蛮人や小児のやうな進化程度の低い人間にもまた観察される」としたうえで、「群衆は、どこにおいても女性的なものである。しかし、あらゆる群衆のうちで最も女性的なのは、ラテン系の群衆である。」同書、28ページおよび32ページ。

                        xlii.       [1] Scott, J.W, op.cit. p.149-150. そこでは「歴史的に異なる『個人』の二つの意味を同時に実現しようとした」と述べられている。

                         xliii.       [1] Pelletier, M., L'ducation f<ministe des filles, in Madeleine Pelletier, p.64.

                          xliv.       [1]  Sowerwine, Ch. & Maignien, C., op.cit., p.102.

                        xlv.       [1]  Doctoresse Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p.241.

                          xlvi.       [1]  Scott, J.W, op.cit., p.126.

                           xlvii.       [1]  Doctoresse Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p.247.

                             xlviii.       [1]  Sowerwine, Ch. & Maignien, C., op.cit., p.106.

                          xlix.       [1]  Doctoresse Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p.240.

                 l.       [1]  Sowerwine, Ch. & Maignien, C., op.cit., p.105.

                   li.       [1]  Doctoresse Pelletier・・・in Gordon, F. and Cross, M., op.cit., p.245.

                    lii.       [1]  Ibid., p.237.

                      liii.       [1]  Klejman, L. et Rochefort, L'action suffratiste..., pp.70-71.

                      liv.       [1]  スコットは、ペルティエにとって「フェミニズムは、女性の社会的ステータスを改善する手段なのではなく、この女性というカテゴリーを完全に消滅させる方法なのである」とし、Modeleski, T.の著作名にある「女性なしのフェミニズム」が歴史的に存在したことを示す格好の事例がペルティエであるとしている。Scott, J.W, op.cit., p.126.

                     lv.       [1] Scott, J.W, op.cit., p.3. スコットのフェミニズム史の方法は、この本の第1章(1-18ページ)に論じられており、最近来日した時の講演においてもこの第1章の議論を、ジャンヌ・ドロワンとユベルチーヌ・オークレールの事例を簡単にひきながら、再提示している。この講演の日本語訳は、以下に掲載されている。ジョーン・W・スコット、荻野美穂訳「女であることのパラドクス−フェミニズムの歴史を読み直す−」同志社大学アメリカ研究所紀要『同志社アメリカ研究』第35号(1999)、25-35ページ。

                      lvi.       [1] ウィリアム・ローグ著南充彦他訳『フランス自由主義の展開1870~1914−哲学から社会学へ−』、ミネルヴァ書房、1998年、347-348ページ。

                        lvii.       [1] 同上、256ページ以下参照。「新自由主義」について吉崎祥司は、19世紀末のイギリスに関してだが、現代の「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」と区別するために、「社会的自由主義」の用語を用いている。吉崎祥司著『シリーズ現代批判の哲学 リベラリズム 〈個の自由〉の岐路』青木書店、1998年、72-73ページ。

                         lviii.       [1] Scott, J.W, op.cit., p.125.

                      lix.       [1]  スコットは、Scott, J.W, op.citの第4章(90-124ページ)をオークレールのフェミニズムの読解に当てており、デュルケームの有機的連帯論は、ペルティエではなくオークレールのフェミニズムの言説的枠組みを提供したものとして論じられている。しかし、本論が述べるようにその流れをくむ言説が国家政策論議として影響力をもつのは、むしろ20世紀に入る頃からであり、ペルティエのフェミニズム形成にも大きく関わっていると考える。

                     lx.       [1] 1890年代から1940年の期間を対象に母性保護と女性の権利を考察したCova, A., op.cit. が、もっとも詳細かつ包括的である。しかし、近年、福祉国家の形成におけるジェンダーの意味をめぐって、欧米各国でのフェミニスト研究が豊富になっており、フランスに関する研究論文・著作も多い。代表的なものは次の通りである。Cova, A., French Feminism and Maternity: Theories and Policies, 1890-1918, in Bock, G. and Thane, P.(ed.), Maternity and Gender Policies. Women and the Rise of the European Welfare States, 1880s-1950s, Routledge, 1991, pp.119-137,  Huss, M.-M., Pronatalism in the Inter-War Period in France, Journal of Contemporary History, Vol.25 No.1(1990), pp.39-68,  Klaus, A., Every Child a Lion: The Origins of Maternal and Infant Health Policy in the United States and France 1890-1920, Cornell University Press, 1993, Offen, K., Depopulation, Nationalism, and Feminism in Fin-de-Si<cle France, American Historical Review, Vol.89, No.3(1984), p.648-676, Stewart, M.L., Women, Work and the French State. Labour Protection and Social Patriarchy, 1879-1919, McGill-Queen's University Press, 1989,  Th<baud, F., Quand nos grand-m<res donnaient la vie, PUL, 1986.

                      lxi.       [1]  Klejman, L. et Rochefort, F., op.cit., p.331.

                        lxii.       [1]  Pelletier, M., Le droit < l'avortement, in Madeleine Pelletier, p.138.

                         lxiii.       [1]  Ibid., pp.139-140.

                          lxiv.       [1]  Ibid., p. 124.

                        lxv.       [1]   ペルティエは、女性が性的奴隷から解放されるためには、女性の労働権が不可欠だとして、Le droit au travail pour la femmeを書いている。このテキストは そのÉ